探し当てた祭りの由来

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『江戸東京歳時記をあるく』
第43回:下恩方上宿の百八灯
by 長沢 利明

 

2006年3月27日

 


 1 八王子市下恩方上宿の百八灯行事

「百八灯(ひゃくはっとう)」とは何かというと、おもに盆の頃に108ヶ所に焚火・灯明・松明などをともして諸霊を祀る行事で、一般的には「ひゃくはったい」と読まれることが多く、それは「百八松明」から来ている読み方なのであったろう。東京都内の場合、これを「ひゃくはっとう」と発音しているので、ここではそれにしたがっておく。都内では八王子市内の下恩方(しもおんかた)上宿と、浅川町散田の興福寺の2ヶ所でのみ、それが古くからおこなわれてきた。ここではその前者について取り上げてみるが、都内でもっとも盛大な百八灯行事となっている。また、それは盆行事としてではなく春になされる行事となっていて、しかも神社でおこなわれる神事儀礼という形を取っているという点で、非常に特色ある行事といえるのである(注1)。
  百八灯のおこなわれるのは、八王子市下恩方地区の、上宿(うえじゅく)という集落である。上宿は近年の宅地化で450戸もの家々が立ち並ぶようになったが、戦前はわずか30戸ほどの小さな農村集落であった。集落の鎮守は北方の山裾に鎮座する御嶽神社であるが、その例大祭日は古くから4月8日と決まっていて、その前夜祭(ヨイマチという)として7日の夜に百八灯がなされることになっていた。1995年頃からは4月8日にもっとも近い土・日曜日、もしくは4月第二土・日曜日の2日間の祭礼となり、俗に「春祭り」と呼ばれるようになったが、初日の土曜日の夜に百八灯がおこなわれるようになった。当地の御嶽神社はもちろん、青梅市の武蔵御嶽山神社から分霊を移して祀られたものであるが、1667年(寛文7年)の創立と伝えられている。しかし、御嶽山の分霊を当地に勧請して鎮守神が祀られたということは、この上宿に古くからあつく御嶽山を崇拝する信徒たちがいたということを意味し、今でもその末裔たちが御嶽講中を維持している。講中は上宿町会とほぼ構成員が重複していて、要するに地付きの旧家筋を中心とした編成となっており、そのメンバーたちがこの祭りを運営してきた。そして例大祭の終わった頃、講中の代表者(講元)は青梅市の御嶽山本社に参拝して、全戸に配る神札を受けてくることになっている。このように上宿の百八灯行事は、武蔵御嶽山信仰と深く結びついて、なされてきた行事であった。
 

 

2 御嶽神社での神事と神輿の巡行

祭りの日に、上宿の御嶽神社をおとずれてみよう。神社の鎮座する山麓斜面下の平地には、聖徳太子を仏式に祀る太子堂があり、大工職人の信仰を集めているとのことであるが、神仏習合時代の名残りをもとどめている。そこから49段の石段が神社の境内へと続いているが、その石段両側の山腹斜面一帯が百八灯行事の祭場となり、おびただしい数のロウソクがそこに立てられることになっており、氏子らがそこを歩きやすいようにと、急斜面には何段もの土止めのステップが刻まれていて、階段状になっている。石段の参道を登り切ると境内の平坦地に至るが、御嶽神社の社殿がそこにあり、拝殿奥の本殿覆屋内には三つの石祠が東西に並んでいて、かつてはこれらの石祠が御嶽神社そのものであったと思われ、後世それに覆屋をかぶせたのであろう。社殿の背後の小丘上には奥社の小祠が祀られていて、その中には御嶽山から受けてきた御眷属の御神体神札が納められている。
  百八灯のおこなわれる日の午後一時、御嶽神社の拝殿内では神主を招いての神事がとりおこなわれ(写真1)、それが終わると子供らによる神輿行列が境内を出発して、上宿の集落内をくまなく巡行する(写真2)。行列の先頭には①万灯がおり、造花や絵で飾られた竿を数人の中学生らが担いで先導をする。次に祭典役員の大人たちが担ぐ②神輿がきて、小学生らの担ぐ③子供神輿(樽神輿)がそれに続く。次には④太鼓車が付くが、台車を引っ張る二本の綱を、揃いの法被姿の保育園児30人ほどが曳く。この太鼓車は浅草の業者の作った本格的なものである。最後に賽銭箱や神輿の台座をリヤカーに積んだ⑤世話人たちが続き、道々で氏子らの納める賽銭もここに集約されることになっている。この神輿行列は2000年頃から始められたもので、それ以前は若者らが樽神輿を担いで回るだけだったのであるが、地域の子供会も何かやろうということで、今見るような幼児・小学生中心の巡行行列となった。今の神輿はその時に土地の器用な人が自ら作ったもので、樽神輿の方は今までと同様、四斗樽に造花と担ぎ棒を取り付けて子供会が作っており、幼児に絵などを描かせて飾っている。
  さらにそれ以前の時代には、神輿そのものがなかった。古老の語るところによると、隣の川原宿では8月17日の秋葉神社の祭りに盛大な神輿渡御がおこなわれていたが、他集落の子供らはそれを担ぐことができない。上宿には神輿がなく、小学校の同級生たちが威勢よくそれを担いでいるのを見て、いつもうらやましく思っていたという。そこで戦後になって上宿でも神輿を持とうということになり、とりあえずは四斗樽を二つ用意し、担ぎ棒をつけて造花で飾り、樽神輿にして万灯も用意し、集落内を担ぎ回ることとなった。その後、手作りの本格的な神輿や太鼓車も新調され、今見るような盛大な行列行進ができるようになったという。したがって、戦前の上宿の御嶽神社の春祭りには神輿行列ということがなされず、百八灯と太々神楽の奉納を中心とする祭りであって、割合に静かな雰囲気の祭礼なのであったが、それでも参道には露店も立ち並び、家々では親族などを呼んで境内にゴザを敷き、神楽を見物しながら野外宴を催しつつ、にぎわいを見せていた。4月8日の当日には恩方第一小学校でも授業を休み、児童らは教員に引率されて御嶽神社への集団参拝をおこない、その後は忠魂碑前までいって拝礼をし、祝いの紅白餅をもらってきたものだという。